戦争反対という話

自分が思いついた話を適当に書き連ね。
戦争を好きでやってる人なんて居ない。まぁ、やってくれれば儲かるとか、そういう考えの人が居るのは確かでしょうが。自らが遭遇したいと思っている人は早々居ないはずです。経済的価値を見出して戦闘行為を黙認している人もいる、という話でしょう。そこで、安易に戦争反対って言うのは間違いな気もするのです。世界が安定して回っていれば、経済がしっかりしたまま世の中があれば誰も問題はないわけです。大抵の場合、争いというのは経済的混乱から生じるものが多いわけで、早い話食べるものに困る、自分の生命に危険が生じるといったところから始まるわけです。自分の身を守らなければ、という自己防衛機能、本能的に他を殺してでも自分を生き残らせなければいけないという、ある意味生物としては正しい行動を取るわけです。自然界の生き物はみんなそうなんですからねぇ。
で、世界中によく治安維持ということで米軍が乗り出すわけですが、それを深く考えずに反対してしまうのはよくないとも思うわけです。米軍の乗り出す裏には経済的価値を考えているという、いわばアメリカ本国の国益を考えた政策があったりする訳ですが、そもそも安定して人権が守られている国をただ荒らしに行っているわけではないと思うのです。政治が荒れている国に潜伏するテロリストが武器を持ち、話し合いで解決しようとする方向に向かう国際社会に対して刃向かうのであれば、そのテロリストと同じ土俵に立ってテロリストを殲滅しなければどうしようもないわけです。
昔に蒙古が日本に攻めてきた際、戦闘前に自分のことを互いに名乗りあうのが常であった日本の武士は、自分のことを名乗りに出たと同時にその文化を知らない蒙古人に殺されたといいます。何が言いたいかというと、自分が当たり前だと思っているルールが人にも当てはまるかというと、全然そんなことはないという事です。話し合うこともなく戦うのは駄目だと言う人がいますが、話し合う気がないからこそテロリストというのは戦闘行為に走るわけです。話し合う場につかせるにはどうしたらいいのでしょう。戦争をするには戦時国際法とまとめられる諸々の条約や規則を守る必要があるわけですが、それを守らないテロリスト集団に対して話し合いをすれば解決できる、というのはどうなのでしょうか。話し合いをする場も、ゲリラ的な戦法が主となる彼らに対し、どのように用意すればよいのでしょう。放置すれば危険である彼らを止めるには、仕方なくとも彼らと同じレベルの場に立ち、彼らが振りかざす武力をもってして鎮圧しなければならないのは仕方ないことなのではないか。私はそう思ってしまいます。